事業所と福祉と労働者
投稿日: 2013年11月30日,カテゴリー: ホームヘルパー
昔、福祉は少し独特な世界であった。福祉が商売の対象となるなんて思ってなかった。現場は貧しかったし、その商売にはならない世界にはいるということはそれなりの覚悟と、使命感があったし、いや、使命感ではなくとも強い意志が必要だったように思う。
数少ない社会福祉を学ぶ学校を卒業する段になって、この世界に入ろうとすると、家族親族が猛烈に反対することは珍しくなかった。「学ぶことはいいが、仕事は許さない」と。比較的大きな社会福祉法人に就職していても、他企業で働いている友人から「ボランティアしての。」と言われることもままあった。でも、そこでやってることに誇りを持ち、社会の矛盾に怒り、対象者といわれていた方との時間を楽しんだ。生活は苦しかったし、今と変わらず仕事内容に見合った給料とは言えなかった。飢え死にすることはないけども、結婚など、先行きを考えると不安もかなりあった。そんな現実に去って行く人もいたが、ここに挑むぞという気概を持ったひとたちがいた。
介護保険制度のスタートあたりから(社会基礎構造改革以降)福祉が商売になり、株式会社を始め、営利、非営利問わず事業所となった。従業者は資格のお勉強が必要となったが、それは社会的地位をあげるものではなく、免罪符となり、お勉強さえできれば、資格さえ取れば(ただお金を払って受講するだけのものも含めて)気概、覚悟はとわれることなく、職業として福祉を生業とできるようになった。既得な人が物好きでする仕事から、一般の職業のひとつとなって、一定の市民権を得たのかもしれないが、人の命を預かる。人の人生に触る。そのことの恐ろしさや、重さを考えずにお気軽に就業できるようになったことがいいとも思えない。
現場では計画書、手順書、マニュアルが必置とされ、それに沿うことで「お仕事」が「法的」に認められるようになっている。
私は昔、あまりにも経験と感だけで仕事がなされ、記録もなく、検証も行われないことに異を唱え、慈善事業から脱却すべきと考えていたし、福祉労働者の労働者としてのアイデンティティーのなさを嘆き、一人組合に入って見たりもした。法人理事長に真っ向から文句も言ったが、受け入れられないと思った時に、どうやって幹部に認めさせるか考え抜いて、進学し、論文を書くことで自分のやってる仕事の意義を認めさせるための武装をした。根底には「怒り」があった。目の前にいる重度の障がい者と言われる人たちの生 がないものとされていることへの怒りであった。労働組合にも入っていて、労働者としての自覚と権利意識もあったが、彼らの生 が脅かされそうになるたび、そんなこと度外視して動いた。
私が特別頑張ったと言いたいわけではない。そんな人たちはこの世界ではいっぱいいて、珍しいものでもなかった。最近そんな人はめっきり減った。(いないとは言えない。知らないところで頑張ってる人がいるかもしれないし)
滅私奉公を求めているのではない。権利意識を正しく持って、人としてしっかり地に足をつけてしっかり考えて欲しいのだ。
福祉が事業になり、国、自治体が責任を放棄して市場原理と自己責任に任せてしまっている現状は、労働者に対しても利用者に対してもより厳しい状況になっているということを自らのこととして捉えて、社会のあり方のおかしさ、生きづらさを抱えた人たちは、静かに抹殺されて行くこの世の中に「怒り」を感じ、ドンキホーテのようにであっても正義を通して行く気概が欲しいものだ。
労働とは単に自分の心身/時間を売っているだけではなく、労働行為によって達成される目的が合目的化されることによる自己肯定感や、社会貢献なども含んでいるのだろうと。
そして福祉労働の場合、確かに労働者としての権利が守られなかればならないのは自明ではあるが、合目的の達成=利用者(当事者)が幸せになるということがその前提としてあるはずと考えます。
しかしそればかりでは長時間/低賃金の労働環境となりがちであり、そこで転職せざるを得ない場面に何度もであってきました。
一番大切なことは合目的と自己実現と、労働対価のバランスなのだろうな…と思うようになりました。
いくら介護報酬があがったとしても、福祉労働はやはり合目的が達成されないと「不全感に苛まれる」ということなのでしょうね。